2006年05月02日
駅前城郭 福山城
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山陽新幹線福山駅のホームから目の前に見える天守閣が福山城です。伏見櫓・筋鉄御門・鐘櫓以外は戦災で焼失し再建された建物ですが、様式的には完成度の高い洗練された美しさを持っています。その天守閣の壁面は総漆喰塗りの白壁で明るい感じを見せますが、北面だけは例外で、総鉄板貼りの真っ黒な外壁でした。北側は城外から本丸までの距離が比較的短かったため大砲による砲撃戦を考慮してこのような頑強な構造となっていました。残念ながら、再建された天守には北面の鉄板貼は再現されず、窓枠や高欄形状も旧態と異なっていて、忠実な復元とは言えないです。
徳川譜代家臣である水野勝成が1620年(元和6年)常興寺山に築城開始、完成は1622年(元和8年)。水野氏は勝成・勝俊・勝貞・勝種・勝成の5代に渡り福山城主を務めたが、嗣子がなく1698年(元禄11年)に断絶。その後出羽より松平忠雅が入ったが、1710年(宝永7年)伊勢(三重県北部)桑名へ移封となった為、今度は下野(栃木県)宇都宮より阿部正邦が入府し城主となります。阿部氏も徳川譜代の名門であり、正福・正右・正倫・正精・正寧・正弘・正教・正方・正桓と続き1896年(明治2年)の版籍奉還を迎えました。なお、7代正弘は1853年・1854年(嘉永6年・安政元年)ペリー来航時の幕府筆頭老中で、日米和親条約(神奈川条約)の締結を行いました。明治維新後、譜代大名の居城という事もあり福山城は廃城となりました。
全国に再建された城は多いが、停車中の車窓から美しい姿を間近に見られるのはここ福山城だけでしょう。築城に当たっては、その外観の見え方にも十分配慮した設計になっているそうです。また大きな駐車場も完備されていますので、車で行っても安心して見学できます。
福山市観光協会
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山陽新幹線福山駅のホームから目の前に見える天守閣が福山城です。伏見櫓・筋鉄御門・鐘櫓以外は戦災で焼失し再建された建物ですが、様式的には完成度の高い洗練された美しさを持っています。その天守閣の壁面は総漆喰塗りの白壁で明るい感じを見せますが、北面だけは例外で、総鉄板貼りの真っ黒な外壁でした。北側は城外から本丸までの距離が比較的短かったため大砲による砲撃戦を考慮してこのような頑強な構造となっていました。残念ながら、再建された天守には北面の鉄板貼は再現されず、窓枠や高欄形状も旧態と異なっていて、忠実な復元とは言えないです。
徳川譜代家臣である水野勝成が1620年(元和6年)常興寺山に築城開始、完成は1622年(元和8年)。水野氏は勝成・勝俊・勝貞・勝種・勝成の5代に渡り福山城主を務めたが、嗣子がなく1698年(元禄11年)に断絶。その後出羽より松平忠雅が入ったが、1710年(宝永7年)伊勢(三重県北部)桑名へ移封となった為、今度は下野(栃木県)宇都宮より阿部正邦が入府し城主となります。阿部氏も徳川譜代の名門であり、正福・正右・正倫・正精・正寧・正弘・正教・正方・正桓と続き1896年(明治2年)の版籍奉還を迎えました。なお、7代正弘は1853年・1854年(嘉永6年・安政元年)ペリー来航時の幕府筆頭老中で、日米和親条約(神奈川条約)の締結を行いました。明治維新後、譜代大名の居城という事もあり福山城は廃城となりました。
全国に再建された城は多いが、停車中の車窓から美しい姿を間近に見られるのはここ福山城だけでしょう。築城に当たっては、その外観の見え方にも十分配慮した設計になっているそうです。また大きな駐車場も完備されていますので、車で行っても安心して見学できます。